五平餅とは押しつぶしたご飯を軍配型にして割木に張りつけた形が御弊(弊帛)に似ていたという説と、山屋五平という宮大工の棟梁が弁当の握り飯に味噌をつけて、たき火であぶって食べたという諸説があります。
伊那谷や木曽谷を中心に作られている五平餅は、かつては豊作の祈りや新穀の感謝を込めて春と秋に神前に供えられたものです。それぞれの家に伝えられた作り方や味があり、庶民にとって貴重品だった米から作る五平餅はもてなしや祝儀に欠かせない晴れの食べ物だったようです。
山に閉ざされた木曽の村々の日常食は、昔は麦飯が中心で、白米をふんだんに使った五平もちなど、農家の人々にとっては大変なご馳走だったといえます。五穀豊穣を祈って神々に捧げ、賓客があった時だけ家族もご相伴に預かるという、いわばもてなし料理でした。
ところで、五平もちといえば、わらじのような楕円形のものを思い浮かべられがちですが、本来は小さな平たいおにぎりを2〜3個串刺しにしたような形であったそうです。馬籠で生まれ育った島崎藤村が描く『ふるさと』にも「平たく握ったおむすびの小さいのを二つ三つぐらいづつ串に刺し……」との一節があり、それがいつの間にか、まん丸の団子形になったり、楕円形のわらじ形になったりと変化していきました。
タレは藤村の『夜明け前』にも「こんがりと狐色に焼けた胡桃醤油の旨そうなやつ……」とあるように、胡桃をすりつぶして醤油に練り込んだのを使うのが一般的です。
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